1972年の首都圏の国鉄(8) -483・485系、489系
前にも書きましたが、子供の頃は家族でスキーに行くのが恒例だったため、上野から出る列車としては上信越線の方が馴染みがあり、交直流の特急電車が主に走っている東北本線系統は眺めるだけという感覚でした。
1972年当時は485系の増備が進んでいた時期ですが、この時点では先頭車は全てボンネット型。貫通型のクハ481が現れたのは、翌年あたりからだったと思います。
盛岡行「やまびこ」です。
この列車を見ると、小学生か中学生のころの国語の教科書に載っていた随筆を思い出します。
誰が書いたものかも忘れましたが、筆者の娘さんがいつも乗り物酔いに悩まされており、窓の開かない飛行機や特急に乗るとぐったりしてしまうという話で、そこで娘さんが夏の帰省を前に「盛岡まで6時間かあ」と嘆く。
そして筆者に「日本には窓が開く列車はないのか」と尋ねると、筆者は「それは鈍行列車で途中で泊まらなければならないくらい時間がかかるよ」と答えるけど、自分が子供の頃の鉄道旅の情景が思い浮かんで、今年は二人でそうやって帰省してみようかと思い至る、みたいな話でした。
授業のポイントは何だったか忘れましたけど、こっちは、乗るのは「やまびこ」か「はつかり」かとか、冷房付きの電車急行はダメかもしれないけど「十和田」(当時は10系や43系)なら窓は開けられるぞと心の中で突っ込んでみたりとか、そんなことだけ覚えています。
山形行きの「やまばと」です。
奥羽本線系統は秋田行き「つばさ」が主力であり、「やまばと」はその補完列車というイメージで、東北新幹線上野開業時に、福島・山形間の特急も名称は「つばさ」に統一されて廃止となってしまいました。
その後山形新幹線開業により、「つばさ」はすっかり山形行き特急の名称となってしまいました。
当時すでに10往復以上運転されていた「ひばり」です。
この先頭車はタイフォンがスカートではなく車体の方に設置されています。
おそらく雪の問題や、スカートは障害物とぶつかって破損する可能性も考えられたのか、この後、東日本のボンネット型クハ481、クロ481のタイフォンはこの車体についているものが主流になったと記憶しています。
会津若松行き「あいづ」です。
磐越西線が9両編成しか入れず、勾配の関係から6Ⅿ3Tが必要であり、かつ食堂車を連結するためにグリーン車をクロ481とした、というクロ481誕生の経緯を、当時よく耳にした憶えがあります。
こちらは信越線系統の489系「白山」です。
この年に急行から格上げされた「白山」ですが、信越線の特急だったので、長野からこれに乗って上野に帰るということは何度かやっています。
「あさま」が8両編成に制限されていましたから、12両編成が組める489系を増備して「あさま」の増発もされていました。
最近の写真としては新潟の485系が引退する直前、ディズニーランド向けの団体列車として東京に乗り入れていた際の写真です。
舞浜駅で乗客を降ろした後、東京駅まで回送して折り返していましたが、新木場駅では遠目ではありますが富士山を写り込ませて写真を撮ることができました。
新潟の485系のうち東京まで乗り入れられたのはATSのP型を搭載した編成だけで、それらは国鉄特急色塗装でした。
(9)は583系です。
| 固定リンク
「70年代の日本の鉄道」カテゴリの記事
- 富良野・美瑛ノロッコ号に乗りに行きました(2026.09.07)
- 高松琴平電鉄の走る風景(2026.08.21)
- 紫陽花の季節(1) 鎌倉・長谷(2026.07.06)
- 12月の鉄道風景(3)東京西部・埼玉(2026.01.31)
- 11月の鉄道風景(1)(2025.11.28)







コメント